現在もうすでに、今の日本では廃れてしまったような技術を用いたものもあります。
第6番目には、日本の国産のものも当然ありますけれども、中国の製品もあります。さらに東アジアの国に限らず東南アジア、さらには西アジアに至る広い範囲の国や地域でつくられたものもあります。また日本や中国でつくられたものでもその意匠と言いますか、デザインと言いましょうか、あるいは技術というものも、他の国々、シルクロードの国々で使っておられたものが日本に入ってきてつくられているという場合もあります。
このように正倉院宝物というのは数々の特徴を持っておりまして、シルクロードと正倉院とが大変関係が深いということは、今までの話の中でもおわかりいただいたと思いますけれども、そういう意味で正倉院がシルクロードの終着点であるということは、お話だけでも多分ご理解いただけたのではないかと思います。
そこで少し角度を変えまして、日本文化の特質というものを頭に置きまして、シルクロードと正倉院について少し考えてみたいと思います。
日本の国は非常に古い時代から中国や朝鮮の諸国と交渉を持っていました。文物の交流も盛んに行われました。それらの交渉を通じて7世紀中頃以降8世紀にかけて、我が国は中国の律令体制を取り入れ、中央集権的な国家体制をつくりあげました。そのような国家の都が奈良県の南に位置します藤原京であり、きらにそこから移りまして今ここからでもすぐ見えますが、目の前に展開しております平城京であります。このような国家体制の形成というのは、その後の我が国の政治社会のもとになるわけでありますが、その時代の文化もまた我が国文化の基礎を形成いたしました。もっとも中国や朝鮮の諸国から学びました律令体制は、いわゆる中国的なものであります。したがって政治のシステムや文化的なものの中に中国的なものか大変色濃く入っております。
奈良時代、つまり8世紀の我が国の都、平城京の状況を詠んだ歌の中に、これは万葉集ですが「青によし 奈良の都に咲く花の 匂うが如く 今盛りなり」という、こういう歌があります。この情景は7世紀の中頃までの我が国ではとても考えられない風景であります。青い色の屋根瓦の建物、家があります。朱色の柱に塗られた色彩豊かな建造物が都のあちらこちらに建ち並んでいるという情景を詠っているわけです。そのような都は中国の晴や唐にならって建設されたと言われております。
町並みだけではありません。多くの外国人もたくさん来ていたようであります。中国人や朝鮮から渡ってこられた人だけではありません。都大路はさまざまな国の人が行き交っておりました。一例を挙げますと、我が国の最も確かな記録であります、これは『続日本紀』という本がありますが、736年のところを見ますと、中国から帰国した遣唐使、これは中国への正式な使いとして出された遣唐使ですが、その遣唐使とともに中国を初めインドやカンボジアの僧侶が来朝したという記録があります。これらの人々は752年の先ほど触れました東大寺の大仏様の完成を祝う儀式が行われますけれども、その時に大変重要な役割を果たした人でもあります。そのほかにもたくさんの外国人が来ておりまして、そういう一行の中にペルシア人、そういう名前の方がおりますが、ペルシア人も含まれておりました。まさに奈良の都は国際都市と言ってよい状況でありました。
そしてこれはその当時の天皇を初め貴族や官吏、その多くも中国の国家社会を模範としていましたから、まさに理想的な都市づくりが行われていたわけであります。
一例だけ挙げますと、この時代に行われました天皇の即位の儀式というのがあります。これはまさに中国風の儀式として行われております。そのような時代ですから、この時代に行われた、中国の文物を取り込むとか、それに囲まれるということが当時の日本人あるいはもう少し限定してもいいのですが、上流階級の人にとっては理想的な生活ということになります。
聖武天皇やその周辺にいた人々も同様であったと思います。したがってこのような上級の貴族、官人たちは競って中国文化の香りを求めました。さまざまな調度品を揃え、それらに囲まれて中国の漢文でつくった詩である漢詩、そういうものを詠み、中国の音楽を奏でる。時には双六や囲碁に
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